徒然なる時に。。
題名のとおり、徒然なるままに。そんな時に更新する日記です。。
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こんばんは。

もはや私の防備録(備忘録)と化しつつあるこのブログ。
今夜もふと思ったことを書き留めておきましょう。


さて、三国志好きの管理人。
一番好きな人物は??
と聞かれたら、何のためらいも無く、「周瑜(しゅうゆ)」と答えることでしょう。

なぜ好きかと聞かれたら、この人物は云々と答えることもなく、
「初めてやった三国志ゲームのコーエー三国志(現光栄)で初めて獲得した軍師であり、その感動が
あまりに強いから」となります(w

好きになってから、この人物の伝記を読んだり、正史三国志を読んだりして
そのすばらしさにさらに好きになったのもありますけどね。

やっぱり最初のインパクトは重要です。はい。


さて、この人物どんな人物なのかせっかくだから、まとめてみましょう。


周瑜、字を公謹。
揚州、廬江郡は舒県の人である。(←大雑把に言うと中国の真中よりやや南東の辺)
西暦175年に生まれ、210年に亡くなっている。(享年36歳)
亡くなるのがあまりに早すぎた人物である。

彼の仕えた主は、幼馴染であった孫策(そんさく)、字を伯符(はくふ)。
古の覇王・項羽(こうう)に似た覇気を持つということから、江東の小覇王と噂された
人物である。
この2人、実は戦国乱世の世の中でなければ、上下逆の間柄になっていたかも
知れない。

というのも、周瑜の生家である揚州の周家、実はとんでもない名門である。
周家からは、司空や大尉といった、後漢時代から三国時代初期にかけての臣下の
最高位である三公となった人物が出ている。
この時代、既に官僚政治が定着し、数万という人数の官僚がいた後漢国家で、一族より
複数人の三公を輩出したことからも、相当の名声を持った一族であることが伺える。
当然、その官職に見合った能力を持った人物がいたことも事実であろうが。
父の周異も首都洛陽で県長をしており、その優秀さが伺える。

一方の孫策であるが、その父孫堅(そんけん:字は文台)まではさかのぼれるが、それ以前の人物は
一向に判明していない。
父孫堅は、自分のことを「孫子の末裔」と称していたらしいが、それが本当であれば、
すくなくとも一族の名前位は記録に残っているであろう。
あの筵売りをしていた、劉備(りゅうび)でさえ、父と母の名前が残っているくらいである。
そのことから、考えると、下級役人であったらしい祖父の名前が残っていない孫策の
一族はほとんど名声といったものが無い一族であったろうと考えられる。
(ちなみに父孫堅は、一代で軍閥を築いたすごい人であるが)

以上からは、武力でのし上がった孫家と、名声を集めていた名門周家というものが
見えてくる。
もし世がそれまでどおりの太平の世の中であれば、周瑜は順当に官僚としての道を
進んだであろうし、孫策はなったとしてもちょっとした武将クラスであったろう。
世が乱世であったからこそ、この2人は幼馴染ながら主人と臣下になったと思える。


さて、話が脱線していますが、この周瑜という人物、正統史書である「三国志」と小説である
「三国志演義」とで非常に扱いが違う人物です。
三国志の中には、こういった人物が何人かいますが、その中でも顕著な例でしょう。


まず三国志における周瑜の人物評価を見てみましょう。

三国志呉書によれば、
「周瑜は容姿端麗にして文武両道、性格は度量が広く義に篤い」とあります。
三国志の著者である陳寿(ちんじゅ)は、あまり人をほめない物書きさんで、とにかく客観的に
事実をまとめることを良しとした人です。
その陳寿をして、”容姿端麗”とか”度量が広い”と言わしめる人物であったということ
でしょう。
ちなみに、この”容姿端麗”なことから、「美周朗」(美しい周の若様)と呼ばれていた
らしい。
さらに、
「音楽に精通し、かなりお酒が回った宴会の場でも、音楽に一音でも間違いがあれば、
奏者のほうを振り返った」といいます。
学問や兵法などのみならず、文化的な教養も多分に兼ね備えていた人物と思われます。
有名な逸話として、呉の重鎮に程普(ていふ:字は徳謀)という人物がいました。
この人物もすばらしい人物ではあったらしいのですが、若干偏屈なところがあったようで、
ある時、10歳以上年下の周瑜が程普の上官となりました。
このとき、程普は「呉の重鎮である自分が年下の若造に指図されるのは面白くない」
ということで、何かと周瑜にはむかっていたそうです。
しかし、周瑜は職権により程普を従わせることはせず、程普を建て、なにかと相談をし、
この宿将と接していたといいます。
そのうち、程普も年下ながら、この周瑜の人物に惚れ込み、素直に従うようになったといいます。
後に程普は周りの人々に、
「公謹と付き合っていると、あたかも芳醇な酒を飲んだように、酔った事に気づかないほどだ」
と話したという。

これほどの人物でありますが、三国志演義となるとその描かれ方はかなり違います。
演義の中では、赤壁の戦い以後、劉備軍の軍師である諸葛亮(しょかつりょう:字は孔明)の
才能に嫉妬し、これを殺害しようと何度も試みる狭量な人物として書かれています。
しかも、その策謀はことごとく諸葛亮に見破られ、最後はその悔しさから血を吐いて
死んでしまうことになっています。

これが演義の怖いところ(w
主人公である劉備&諸葛亮主従の前に立ちはだかる人物は全て悪人になってしまう
という演義マジック!

余談ですが、この演義ベースの赤壁の戦いでは、終始諸葛亮が策謀の中心を担っています。
冷静に考えると、この時期何の根拠地も持たない劉備の配下である諸葛亮がそれほど重要視
されるとは、ちょっと思えません。
周瑜は呉の水軍都督(軍の総司令官)、一方諸葛亮は流浪の将軍の一配下。
しかも、呉書やその他の資料を見ていくと、どうも周瑜は劉備一党をかなり警戒していた節が
あります。その劉備配下の諸葛亮にわざわざ手柄を立てさせるようなことはしないでしょう。

さて、話がまた脱線しましたが、他にもこの落とし穴に嵌った人物は何人かいますが、周瑜ほど
異なる評価を受けた人物は珍しいと思います。

実際には、赤壁の戦い後、蜀の劉障を攻める途中に軍中で死亡してしまいます。
その死因はただ“病没”としか書かれていません。
この遠征が成功していれば、北部の曹操と、南部の孫権という構図が出来上がって
いた可能性は高く、途中で司令官である周瑜が死亡したことが悔やまれます。

しかしながら、この死があまりに突然なところに、何かしらの陰謀を
感じてしまうのは、私が単に周瑜ファンだからなのでしょうか。。


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