徒然なる時に。。
題名のとおり、徒然なるままに。そんな時に更新する日記です。。
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三国志 ~目立たななくても頑張ってます~①
皆さまこんばんは。

さて、何でもありの様子を呈してきた当ブログ。
管理人の好き勝手な話題を、今日も提供していきませう。

さて、タイトルにもありますように、今回は三国志。
目立たないというか、マイナーというか、まあ正直三国志好きな
人くらいしか知らないであろう、武将を紹介してみましょう。
(①としておいて、②以降があるのかは不明。。)

さて、1回目は私の好きな呉の国から、マイナーながらも私が好きな
徐盛(じょせい)という武将です。


徐盛 字を文嚮(ぶんきょう)。
琅邪国(ろうや)の人。
といっても何処のことやらといった感じと思いますが。
中国の東海岸に近いとこと思って下さい。
琅邪国からは、他にもかの有名な諸葛亮(孔明:こうめい)さんも
出ています。

三国志呉書には「世が乱れてきたので、故郷を棄て、呉郡に仮住まいし」
とある。
おそらくこの「世が乱れてきた」というのは、曹操の徐州侵攻による
大虐殺事件を指しているのだろうと推察されます。
呉書には徐盛の年齢は記載がないが、上記のことから、曹操の徐州侵攻時(193年)
に、ある程度の年齢であることが分かります。
少なくとも10代半ばより年齢は上だったと予想されます。
そうなると、同じくこのときに琅邪国を脱出した孔明よりもやや年上だった
のでしょうか?

さて、この後、呉郡に住まいした徐盛は、度胸と義侠心で有名になり、
孫権に認められ、別部司馬(まあ、部隊長といったところでしょうか)に
任命され、前線の守りにつきます。

そのころは、勝ったり負けたりで、まあ、前線でたたかう一武将に過ぎない
印象ですが、年を重ねることで、成長したのか、後、呉と魏が戦うように
なると安定感が増してきます。

もっとも徐盛の印象が強くなるのが、魏の曹丕(そうひ:文帝)との戦い
でしょう。
大軍を擁して、長江を渡ろうとした文帝は、対岸に築かれた防御壁を見て、
驚き、(長江が増水時期だったこともあり)軍を纏めて引き上げてしまいます。
この防御壁、実は仮の木棚に簾(すだれ)を掛けて、偽装した偽物でした。
これを建策したのが、徐盛であり、他の諸将は最初猛反対していました。
しかし、自身の策に自信をもっていた徐盛は強行に主張。
遂に孫権に認められて、見事魏軍を撃退することに成功したのです。

冒頭にあったように、かなりの度胸を持った人物であったことが分かります。

徐盛の度胸を物語るエピソードがもう一つあります。
223年、同じく魏の曹休が攻め寄せてきた時のこと。
徐盛は、上司となる呂範(りょはん)や同僚の全(ぜんそう)と共に迎撃に向かいます。
しかし、居り悪く強風が吹き、呉の船団は多くの船が転覆するなどしてしまいました。
呂範、全が兵を纏めて引き上げる中、徐盛は残りの兵を纏めて、曹休と対峙します。
寡兵となった徐盛に曹休が攻め寄せてくると、寡兵でこれを良く防ぎ、遂に曹休を
退却させました。

度胸もあり、知略もある、まさに名将と言える人物であったことが伺えます。
ただし、性格的にやや協調性に掛けるところがあったようで、同僚の武将と上手くいかなかった
こともあるようです。

その後、黄武年間(222~229年)に死去したとあります。
曹休の侵攻が223年、曹丕の侵攻が224年なので、224年~229年の間に死亡したことに
なります。

故郷を棄てたとされる193年に仮に15歳だったとして、229年に死亡した場合、
51歳で死亡した計算になります。
当時の年齢でいえば、若くはないのでしょうが、もう少し長生きしていれば、
まだまだ呉の国の戦力となった武将と思われます。

さて、マイナー気味な徐盛ですが、そのせいか、かの有名な光栄三国志シリーズ
初期では、なんとも悲しい能力値評価を受けています。

知友兼備の名将のはずが、

       知力  武力  魅力
三国志Ⅰ: 49   86   56

これじゃあ、ただの猪武者です。。
私も最初は、ただの武力馬鹿としてゲームで使ってました(w

まあ、最近は光栄さんも能力値の見直しが進んで、立派な名将扱いされていますが、
マイナーな武将の能力値というのは、見てみると結構面白いですね。
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かなりご無沙汰。。
皆さまこんばんは。

前回の更新から、、、いったいどれ位経ったのでしょう(w
もはや、閉鎖寸前でしたが、今回から少しづつでも更新できたらと
思っております。

【うさぎさんのこと】

さて、まあもう一つのブログを覗いてくださっていた方はご存知と
思いますが、我が家の愛兔が今年天へと召されました。

暫くは、ショックというか、なんというか。
なかなかうさぎさんに近づけなかったのですが、まあ、最近は
ウサギが足りないと言いますか(w
血中兔濃度が足りない今日この頃です。

そんな時には、いつもお邪魔していた、広島唯一の兔さん専門店、
Rabbit Parade」へお邪魔します。

こちらのブログでは、ご紹介は初めてですね~。
とても、暖かい雰囲気の素敵なお店です。
説明が何処にでもありそうな感じですんません。。
一度行って見てください。素敵な感じが肌で感じられると思います。

ということで、先週もお邪魔してきました。

アルちゃん

昨年のうさぎと暮らすカレンダーで11月のトップを飾った、アルビオン君
(通称アルちゃん)とか、

信長くん

いつものんびりなイメージのある、信長君、

ミルモちゃん

私達夫婦のお気に入り、ミルモ君(通称ミルちゃん)などがお出迎え
してくれました。

この日は、お店にうさぎさん等の専門家の先生が、たまたま来て
おられ、なんだかちょっとした講習会のようになり、ついつい長い
時間お邪魔してしまいました(汗

本当に楽しいお店ですぜぃ(w


【お馬さんのこと】
ところで、以前にもこのブログでは、書いて降りましたが、私競馬が大好き
です。
と言っても、もっぱら見るほうなのですが。

今年は、夏に1990年代前半のスターホース「オグリキャップ」の死亡が
新聞やテレビのニュースで報道されました。
個人的には、競馬を見始めた頃の、思い出の馬ですので、驚きました。

しかし、その影に隠れて実はもう一頭、死亡した馬がいました。
その名は「スーパークリーク」。
オグリキャップと同世代のこの馬は、実力的にはオグリに匹敵するものを
もっていたと思います。
実際GⅠを3勝し、名馬の地位を不動のものにしています。

実は、管理人の一番好きな馬でもあります。
この馬の走りを見て、競馬を好きになったと行っても良いと思います。

中距離GⅠを勝つスピードと、長距離を走りぬくスタミナを併せ持った
名馬でした。
オグリキャップの影に隠れて、余り一般には名前を知られていなかったかも知れませんが。

オグリとクリーク、一つの時代の終わりを感じる夏となりました。

さらに、この9月には、個人的に期待していた「タケミカヅチ」が急死した
とのニュースも聞きました。
まだ5歳。
やや遅めの活躍が多い、ゴールドアリュール産駒。
これからと期待していたのですが、非常に残念なことになりました。
個人的な一押し。
さて、また随分と間があいてしまってます。。
まあ、これもこのブログのリズムということで(w

さて、GⅠが無い夏競馬もそろそろ終盤となり、秋のGⅠ戦線の主役が
出揃ってきました。
とは、個人的にはそれほど飛びぬけたお馬さんが居ないように感じる今日この頃。
私の当たらない予想では(泣)、秋のGⅠ戦線も春に活躍した馬たちが主役に
なるような気がします。
メイショウサムソンは凱旋門賞へ行ったので、しばらくは出てこないかもしれませんが、
古馬ではウォッカヴァーミリアン、三歳馬ではディープスカイなどが出てくるでしょう。

ヴァーミリアン
  ↑ヴァーミリアン(個人的に現役馬で一番好き)

しかし、個人的には上記の馬より、春から注目している馬がいまして。
その馬は「タケミカヅチ」。
最初は名前に惹かれたんですが、強烈な末脚で前を差しきる競馬が魅力ですね。
その割には1勝しかできてないんですが。。
しかしながら、戦績を見るとほとんど掲示板(5着以内)をはずしていない安定感も
あって、そこも好みです。
父はゴールドアリュール。
ダートの1800~2000で活躍した一流馬で、フェブラリーSや東京大賞典などの
ダートGⅠを4勝しています。
母のカズミハルコマもダートでの戦績が良いことを考えると、タケミカヅチもダート適正は
高そうなんですが、陣営は芝で勝負にいってますね。
まあ、父父があのサンデーサイレンスなんで、芝でも走る可能性はあると思いますし、
3歳の時は、あせってダートに行かなくてもというのはあるでしょうね。
秋はセントライト記念から始動するとの情報もありますし、ぜひ2勝目をあげてほしい
ところです。

さて、この夏競馬では来年のクラシック戦線を盛り上げるであろう、2歳場も続々と
デビューしていますね~。
メイクデビュー戦など全部見たわけではないんですが、たまたま見た新潟メイクデビュー
なんとなく気になる馬を発見しました。
「ゴールドスパークル」という2歳馬です。
当然まだ1レースしか見ていないので、今後どのように成長して行くかはわからない
ですが、メイクデビューを見る限り、相当の瞬発力と反応の良さをもってそうな気が
します。

ということで、本日の新潟2歳S、ゴールドスパークルを期待してみていたんですが、
どうも不良馬場が影響したのか、まったく後半延びてこず。。
残念。
まあ、先は長いですから今後も頑張ってもらいたいですね。

改訂版・写真日本クモ類大図鑑
2008年7月に発行された、「改訂版・写真日本クモ類大図鑑」を購入しました。

初版は1989年発行であり、およそ20年前の図鑑ではありますが、そのクオリティーの高さは
今現在でも変わりません。

初版が絶版になってから、再発行を望む声が多かったのでしょうか、このたびの改訂版発行と
なりました。

私がクモの勉強を始めたのが、1995年。
その当時既にこの図鑑は在庫希少の状態でした。
かと言って、学生がすぐに手を出せる値段でもなく。。(当時で約18,000円と記憶しています)
社会人となるころには絶版となり、購入は不可能となりました。
時折オークションにも出ていましたが、80,000~100,000円というプレミアが付き、私の安月給
ではとても買えない、高嶺の花状態でありました。


そこに、今回の改訂版の出版。
うれしかったですね~。
値段は30,000円と値上がりしましたが、今のご時勢、それも仕方がないですよね。

改訂版ということで、種数などに変更があるのかとも思いましたが、種数の変更はなし。
変更があったのは、
・当時種名未確定であったが、現在種名が確定しているものの和名に対応していること。
・所属科の変更に対応していること。(ただし、図版の移動はなし。変更のあった種はその学名の
 後に括弧付きで新科名が付記されている)
・解説文中の分布に最新の知見が取り入れられていること。
です。
あくまで、故千国安之輔先生の意思を尊重しての改訂版といったところです。

いずれにしろ、生体写真+生殖器のマクロ写真の組み合わせでこれだけの種数を網羅した図鑑は
他にないので、ほしいと思われる方は、この機会に購入されてみてはいかがでしょう。
またすぐに絶版にならないとも限らないので。。
こんばんは。

もはや私の防備録(備忘録)と化しつつあるこのブログ。
今夜もふと思ったことを書き留めておきましょう。


さて、三国志好きの管理人。
一番好きな人物は??
と聞かれたら、何のためらいも無く、「周瑜(しゅうゆ)」と答えることでしょう。

なぜ好きかと聞かれたら、この人物は云々と答えることもなく、
「初めてやった三国志ゲームのコーエー三国志(現光栄)で初めて獲得した軍師であり、その感動が
あまりに強いから」となります(w

好きになってから、この人物の伝記を読んだり、正史三国志を読んだりして
そのすばらしさにさらに好きになったのもありますけどね。

やっぱり最初のインパクトは重要です。はい。


さて、この人物どんな人物なのかせっかくだから、まとめてみましょう。


周瑜、字を公謹。
揚州、廬江郡は舒県の人である。(←大雑把に言うと中国の真中よりやや南東の辺)
西暦175年に生まれ、210年に亡くなっている。(享年36歳)
亡くなるのがあまりに早すぎた人物である。

彼の仕えた主は、幼馴染であった孫策(そんさく)、字を伯符(はくふ)。
古の覇王・項羽(こうう)に似た覇気を持つということから、江東の小覇王と噂された
人物である。
この2人、実は戦国乱世の世の中でなければ、上下逆の間柄になっていたかも
知れない。

というのも、周瑜の生家である揚州の周家、実はとんでもない名門である。
周家からは、司空や大尉といった、後漢時代から三国時代初期にかけての臣下の
最高位である三公となった人物が出ている。
この時代、既に官僚政治が定着し、数万という人数の官僚がいた後漢国家で、一族より
複数人の三公を輩出したことからも、相当の名声を持った一族であることが伺える。
当然、その官職に見合った能力を持った人物がいたことも事実であろうが。
父の周異も首都洛陽で県長をしており、その優秀さが伺える。

一方の孫策であるが、その父孫堅(そんけん:字は文台)まではさかのぼれるが、それ以前の人物は
一向に判明していない。
父孫堅は、自分のことを「孫子の末裔」と称していたらしいが、それが本当であれば、
すくなくとも一族の名前位は記録に残っているであろう。
あの筵売りをしていた、劉備(りゅうび)でさえ、父と母の名前が残っているくらいである。
そのことから、考えると、下級役人であったらしい祖父の名前が残っていない孫策の
一族はほとんど名声といったものが無い一族であったろうと考えられる。
(ちなみに父孫堅は、一代で軍閥を築いたすごい人であるが)

以上からは、武力でのし上がった孫家と、名声を集めていた名門周家というものが
見えてくる。
もし世がそれまでどおりの太平の世の中であれば、周瑜は順当に官僚としての道を
進んだであろうし、孫策はなったとしてもちょっとした武将クラスであったろう。
世が乱世であったからこそ、この2人は幼馴染ながら主人と臣下になったと思える。


さて、話が脱線していますが、この周瑜という人物、正統史書である「三国志」と小説である
「三国志演義」とで非常に扱いが違う人物です。
三国志の中には、こういった人物が何人かいますが、その中でも顕著な例でしょう。


まず三国志における周瑜の人物評価を見てみましょう。

三国志呉書によれば、
「周瑜は容姿端麗にして文武両道、性格は度量が広く義に篤い」とあります。
三国志の著者である陳寿(ちんじゅ)は、あまり人をほめない物書きさんで、とにかく客観的に
事実をまとめることを良しとした人です。
その陳寿をして、”容姿端麗”とか”度量が広い”と言わしめる人物であったということ
でしょう。
ちなみに、この”容姿端麗”なことから、「美周朗」(美しい周の若様)と呼ばれていた
らしい。
さらに、
「音楽に精通し、かなりお酒が回った宴会の場でも、音楽に一音でも間違いがあれば、
奏者のほうを振り返った」といいます。
学問や兵法などのみならず、文化的な教養も多分に兼ね備えていた人物と思われます。
有名な逸話として、呉の重鎮に程普(ていふ:字は徳謀)という人物がいました。
この人物もすばらしい人物ではあったらしいのですが、若干偏屈なところがあったようで、
ある時、10歳以上年下の周瑜が程普の上官となりました。
このとき、程普は「呉の重鎮である自分が年下の若造に指図されるのは面白くない」
ということで、何かと周瑜にはむかっていたそうです。
しかし、周瑜は職権により程普を従わせることはせず、程普を建て、なにかと相談をし、
この宿将と接していたといいます。
そのうち、程普も年下ながら、この周瑜の人物に惚れ込み、素直に従うようになったといいます。
後に程普は周りの人々に、
「公謹と付き合っていると、あたかも芳醇な酒を飲んだように、酔った事に気づかないほどだ」
と話したという。

これほどの人物でありますが、三国志演義となるとその描かれ方はかなり違います。
演義の中では、赤壁の戦い以後、劉備軍の軍師である諸葛亮(しょかつりょう:字は孔明)の
才能に嫉妬し、これを殺害しようと何度も試みる狭量な人物として書かれています。
しかも、その策謀はことごとく諸葛亮に見破られ、最後はその悔しさから血を吐いて
死んでしまうことになっています。

これが演義の怖いところ(w
主人公である劉備&諸葛亮主従の前に立ちはだかる人物は全て悪人になってしまう
という演義マジック!

余談ですが、この演義ベースの赤壁の戦いでは、終始諸葛亮が策謀の中心を担っています。
冷静に考えると、この時期何の根拠地も持たない劉備の配下である諸葛亮がそれほど重要視
されるとは、ちょっと思えません。
周瑜は呉の水軍都督(軍の総司令官)、一方諸葛亮は流浪の将軍の一配下。
しかも、呉書やその他の資料を見ていくと、どうも周瑜は劉備一党をかなり警戒していた節が
あります。その劉備配下の諸葛亮にわざわざ手柄を立てさせるようなことはしないでしょう。

さて、話がまた脱線しましたが、他にもこの落とし穴に嵌った人物は何人かいますが、周瑜ほど
異なる評価を受けた人物は珍しいと思います。

実際には、赤壁の戦い後、蜀の劉障を攻める途中に軍中で死亡してしまいます。
その死因はただ“病没”としか書かれていません。
この遠征が成功していれば、北部の曹操と、南部の孫権という構図が出来上がって
いた可能性は高く、途中で司令官である周瑜が死亡したことが悔やまれます。

しかしながら、この死があまりに突然なところに、何かしらの陰謀を
感じてしまうのは、私が単に周瑜ファンだからなのでしょうか。。



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